富士の麓から

富士山に住む

私にとって富士山は、生まれた時から存在する裏山になる。
富士市に住んでいる多くの市民と同様に、北には富士山、南には駿河湾が広がりその合間に人の生活があるのが、富士山の南麓、岳南と呼ばれる地域に住んでる人が持っている土地勘だ。それは数百年数千年前にここに生きてきた全ての人達の変わらぬものだ。
苗を植える時などに私の茶園を掘り起こすと時々土器のカケラが出て来る。父や祖母からは弥生時代からここには人が住んでると聞かされてきたが、実際にその鱗片を見つけると、古代の人も富士山を見上げて生きていたのかと感慨深いものがこみ上げる。
噴火の度に多大な被害を受けてきながらも今もなお此処には数十万人が暮らしている。私の街は古富士と言う、今の富士山の下にある一世代古い富士山の溶岩上に栄えている。
富士山の麓に住んでるのではなく、富士山の上に住んでる。諦めの悪い、不屈の心の住民が繋いできたのが岳南地域だ。


富士山への想い

とはいえ、実のところ岳南に住んでるからと行って常に富士山に想いを馳せるかというとそうでもない。 むしろ、日常では無関心に近いのではないか。 幼少の頃を思い返して気づいたのだが、両親に茶園に連れて行かれる時の憧憬は富士山ではなく、眼下に広がる駿河湾、太平洋なのだ。 海の向こうに見える伊豆半島と御前崎。その間には水平線が空との境に線を引いている。これが私の憧憬なのだ。 岳南に住んでると富士山は当たり前に存在するものになる。子供にとっての両親のように、疑いもなくそこに居てくれる御山、それが富士山で、たまたま私達の裏山が日本一の美山なのだ。 子供が両親に目線を送る時は、心に動きがあった時だ。嬉しい事、悲しい事、不安な事、やるせない事。 そんな時に子供が親に頼る様に、私達は何が事が起きると裏山を仰ぐ。普段は海を見ているくせに、困ると見上げるのが富士山なのだ。 開国の祖・木花咲耶姫を祀る富士山は女神の山だ。優美な裾野に白妙の衣を纒う姿に、揺れる心は静まり、仄かにともし火が灯る。 母親にあやされる赤児の様で気恥ずかしいが、これこそ私が持つ富士山への想いだと思う。 いつもそこにある。当たり前の有難さを感じながら茶園に立っている。


富士山のお茶

富士山のお茶を飲んだ事がある。
茶師の在り方を変え、自らを富士山の茶師でありたいと思うきっかけとなったお茶を戴いたのは富士山表富士宮口山道に山室を構える赤池さんとの出会いの時。
このお茶の香味は今でも忘れる事がない。
標高300m弱、富士宮市粟倉にある自宅裏で育った茶葉を山梨まで運んで作ったお茶は、毎夏富士山に訪れる登山者のためのもてなしのお茶だった。
それは何重もの袋に包まれ一斗缶に入っていた。見た目は色が沈み、香りは劣化した茶葉特有のものがある。いかにも古くなった様相だ。
だが、これがとびきり美味かった…。
話を聞くと、山室のお茶は夏の終わり、室を閉める時に余ったものを富士山で寝かせ、翌年新茶を持参して良く混ぜて使われていた。数百年続くこの方法、時に二年三年と室に残る茶葉もあるのだろう。
酸化劣化と言われたら確かにそうだ。
しかし、劣化と切り捨てるには余りある深みを目の当たりにして、お茶は鮮度が全てとの既成概念は疑問となった。
熟成は有り得るのか?赤池家の茶園管理を調べるうちにそれは確信に変わり、当たり前に信じていた栽培方法が未来永劫に続くただ一つの道じゃない事に気づいた。
それは、今思えば土と、風と、茶の木との関係を大きく変えるきっかけになった。
富士山でもてなすために作るお茶は、富士山を体現する熟成のお茶だ。無理な施肥もなく、自然に任せて育てた葉でないと熟成は始まらずただ劣化していくだけなのだと気づいた時、未来に繋がる新しい価値観がいくつも育まれていた。
富士山の自然と対話し、時の中で価値が育つお茶が裏山で出来るのならそう有りたい。
その思いは様々な富士山のお茶を生み出す原動力になった。
土を見て、季節を見て、品種を見て、製法を変え、様々なコンセプトのお茶を生み出すのは、富士山のお茶が百年千年先に価値を持つための基礎を創りたいからだ。
一杯の茶碗が教えてくれた富士山のお茶の価値。私はこれを守り、生み出し、育てていく富士山の茶師で有りたいのだ。


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五代目 本多茂兵衛 謹製茶

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