初代本多茂兵衛は明治九年、現在の静岡県富士市の東部に広がる愛鷹山の麓、駿東郡船津村に生まれた。
結婚を機に現在、まる茂茶園がある富士岡村に移り住み、本多の性となった。
本多家の源流を探ると、富士岡村の成り立ちにたどり着く。
富士岡村は明治9年、宗高村・東宗高村・西宗高村・中宗高村・花守村が合併してできた比較的新しい村だった。
(後、明治22年に町村制施行により比奈村、桑崎村、石井村、間門村、鵜無ヶ淵村、富士岡村が合併して吉永村となっている。)
伝聞によると、本多の宗家は江戸の時代西方より来てこの地で帰農したらしい。富士岡村の元になる「宗高」なる地名は、三河國設楽郡宗高村、並びに遠江國榛原郡宗高村にあり、徳川の武士の末端を自称するにはこの辺りの村の出でないかと推測する。
角川日本地名大辞典によれば「宗高村は駿河湾に注ぐ潤井川の支流沼川右岸に位置し、地名は開発者の故郷に由来するというが、未詳」と書かれており、この開拓者に本多を名乗る祖先がいたのではないか。
ともあれ、明治の動乱を前に刀を置いた本多の一族は農民として富士山麓を耕す日々を送る。
当時富士山周辺は既に茶産地であり、特に水源を持たない山間部では貴重な換金作物であった。
当時の茶園は苗で育てる現在と異なり種を撒き育てる在来種で、植え付けの場所は現在では考えられないほど山中に及んだ。林業が発展するまで富士山の奥地は茶園が点在していたらしく、今でも山中分け入ると自然に還った茶の木を見かけることが多々ある。
本多家においても、富士山から愛鷹山にかけて聖人山、アセミ平といった字の土地に野生の茶樹が見受けられる。
維新を支える外貨獲得の手段として始まった茶葉の輸出は昭和初期まで続き、茂兵衛も米や畑地と共に茶の栽培に勤しんでいた。
明治35年に茂兵衛、とよ の間に生を受けた本多一郎はその生涯を富士山の茶師として歩み、マル茂の祖となった。
昭和二年、一郎は父、茂兵衛を説得し、茶園栽培から茶製造に大きく舵を切った。
この年世間は昭和金融恐慌や上海クーデター等、経済・政治共に緊迫した年で、以後日本は戦争への路を歩み始める。茶も輸出が停滞していた。
そんな灰色の時代だったが、一郎は偉大なる富士山の麓で愛する茶を造れる事に、希望の青空を見上げていた。
一郎と茂兵衛の二人は相談の後、屋号を○に茂る、マルモと決めた。
父茂兵衛の一字を貰い受けた“弟”を一郎は大事に育て上げた。時代は流れ過酷な戦争の最中、同時期に茶工場を立てた仲間は次次に廃業をしていったが、一郎は巧みに茶を流通させ、海外への輸出が下火になると一転して海軍に、遠洋航行での壊血病対策にと生まれた茶葉の需要を掴み、太平洋戦争末期、物資の足りない中も一年と途絶えることなく茶造りは続いた。
終戦を機に茶の取引先はGHQに変わった。
日本への復旧支援の見返りにアメリカから求められたのはお茶だった。マル茂には当時のGHQの要望に答えるために高品質の茶葉を造り輸出するように国より要請を受けた書状が現存している。
国の要請を受け、一郎は焼け野原になった日本を取り戻すために、戦中食料確保のため抜かれた茶の木を植え直し茶を海外に送り続けた。
当時は国内でも紅茶製造が行われていて、一郎は時勢を読みながら時に煎茶を、時に紅茶を造り分けていた。その製造技術は評判高く静岡県による紅茶の製造研修を行うこともあったらしい。
特に注力していたのは茶葉の品質管理で、萎凋による香りの生成を極めその技術は今でもマル茂の茶造りの根底に存在している。
昭和40年代になると日本茶は国内で広く飲まれるようになり茶園面積は拡大していった。一郎は自分のお茶への知識経験を惜しみなく富士山麓の農家や茶師に伝えて回った。
ある者は夕方、山中より摘んだ茶葉を工場に持ってくるとそのまま居間で食事をして良い具合に酔った後、牛の背に乗って帰っていき、ある茶師は茶を紡錘状に伸ばす精揉機の使い方を怒鳴られながら学び、よその工場に移った時には技術の高さからそのまま工場長になった。売りに行った茶葉がその日の最高値をつけたら一升瓶を振る舞ったとか。みな、茶園で作業している時に隣の農園で野菜を作る地域の老人から聞いた話なのが面白い。半世紀前の小僧の頃、一郎に師事した青年達は八十を超えた今でも地域の農地を耕しているのだ。
三代目本多茂兵衛・孝が昭和二年に生を受けたその年、本多家は茶師を生業にしマル茂の屋号で製茶を始めた。
穏やかな性格の孝は技術の人だった。前線には行かなかったが一郎と共に海軍・GHQと戦前戦後の荒波を乗り越える中、製茶師としての研鑽を積んでいった。昭和25年、木造の大型工場を建造。当時あまりの大きさに体育館でも作っているのかと噂を読んだ。排気口を兼ねてそびえ立つ煙突は東名高速道路からも見えたらしい。孝が特にこだわったのはお茶の蒸し方。軸が長くなる富士の茶葉をどうするとより美味しくなるのか。伝統的な形状を捨てて選んだ独特の蒸し方は二代目・一郎とは大いに論争になった。しかし昭和50年代初頭、先んじて流行の兆しを見せていた深蒸し茶に準ずる本多家の茶は一郎がこだわった冷ます茶の保管と相性が良く、甘く、旨く、鮮やかで、飲み口が後を引くと評判となった。
また地域の方への茶葉の小売を始めたのも三代目からになる。昭和48年に仕上げ設備を設けて工場直売を行った。その際に静岡市中の茶匠に学んだ仕上げ再製造法は当時一番丁寧な技法だった。
試行錯誤の末身につけた技法。その過程は工場のあちこちに点在した。孝は足りない道具は自身で創り、至らない機械は加工改良をした。その全てに年号を書き込み、時には費用まで書き留めている。
昭和何年に何の機械を導入した、どの機械のどこを改良した。孝の残した遺産は昭和茶産業史の改変として工学院大学の二村悟博士によって論文にまとまっている。
昭和28年、孝・澄江の間に生まれた進は製茶の香りと共に幼少期を過ごし、静岡県茶業試験場にて学んだ。昭和40年代当時の茶業は最盛期。国、静岡県共に産業研究が盛んで毎年技術革新が生まれていた輝かしい時代だった。栽培、製造に関するあらゆる革新を事業として学んだのが三代目なら、四代目は学問として基礎体系を見に付けた最初の人間に当たる。静岡県茶業試験場では2年間の寮生活で 後に県下に名を馳せる多くの茶師と寝食を共にし富士に戻った後もその関係は今に続いている。 一郎、孝と共に茶業に携わり順風満帆な本多家に悲劇が訪れる。長男英一の生まれた二ヶ月後、孝が急死、若干58歳だった。
三代目亡き後、四代目進を支えたのは当時から現場を支えた茶師達だった。
焙炉頭の三代目がいなくとも、いつ何をしてどうしたら良いお茶になるのかを茶師・本多茂兵衛と共に生きる中で誰もが理解していた。
進自身も三代目同様に技術の人間だったのも功を奏した。一枚の葉を追求する熱意は昭和から平成に時代が移っても消えることなく灯された。
茶の飲まれる状況も変わりペットボトルの時代になった。 見切りをつけ廃業を決める農家、茶師、茶匠・・・一人、また一人と姿を消していく。 茶の置かれる状況も、世間模様も、さながら昭和初期に似通ってきた。 灰色の時代・・・しかしそれは、マル茂がこの世に生まれた時代であるのも事実だ。
茶は人類に五千年も寄り添い続けた飲料だ。
その中には、昭和初期や今のように灰色の時代も数多あったのだろう。
そして、その度に時代時代の茶師達は、時代に生きる人々の幸福に茶を変化させて繋いできた。
灰色の時代、富士の茶を背負い旗を掲げた本多茂兵衛は、今また新たな旗を掲げる事とした。
平成26年6月3日。四代目から受け継ぐ情熱の灯火を胸に、五代目本多茂兵衛は富士山まる茂茶園を設立。
父が、祖父が、曽祖父が、高祖父が、分け入り耕し育んだ富士山の茶を次の百年先に繋げる為に。
日本の象徴・富士山に世界中の茶が集まり、散じて、幸福の一杯とする為に。
五代目本多茂兵衛の物語はここから始まる。
日本茶を未来に残すために、様々なプロジェクトを実施しています。